「楡馬」版−競馬辞典

―― 人物編 ――
last update : 07/04/20


<あ>
【赤木高太郎】【有馬頼寧】【安藤勝己】【安藤光彰】
赤木高太郎(あかぎ こうたろう) (1970- )
園田姫路競馬で小牧太岩田康誠に次ぐ3番手の騎手として活躍。2004年JRA移籍。地方通算1176勝、勝率11.5%。
赤木高太郎騎手
安藤勝己小牧太のように受験優遇制度ではなく、実力で1次試験から騎手試験を受験して合格した最初の騎手。地方時代にも海外に長期遠征するなどの努力家で、その努力は並大抵のものではなかったはずである。早く重賞勝ちを収めることが期待される。
園田姫路競馬は毎年『ケイバノート』という競走番組や騎手名鑑などを記載したものを発行している。'98年版の各騎手の「昨年1年間で最も嬉しかったこと」の項を見ると、大抵の騎手は「重賞に騎乗できたこと」「100勝達成」など仕事上のことを書いている。だが1人、奇抜なことを書いた者がいた。赤木である。「シカゴブルズがチャンピオンになったこと」…。
同じく「趣味」の項を見ると、大抵の騎手は「ゴルフ」「ドライブ」「釣り」など、いたって月並みなことを書いている。だが1人、奇抜なことを書いた者がいた。赤木である。「マンガ喫茶でマンガを読む」…。
ちなみに'99年版の彼の趣味は「英会話を勉強すること」になっていた。
last update : 2005/07/16
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有馬頼寧(ありま よりやす) (1884-1957)
日本中央競馬会(当時JRAなんてシャレた呼称はなかった…)の2代目理事長('55年4月〜'57年1月死去)
有馬頼寧
旧久留米藩主・伯爵有馬頼萬の長男。1924年、立憲政友会から衆議院に出馬して当選。任期中に有馬家を継いで伯爵の爵位に受爵、華族の互選による貴族院議員に挙げられ、1937年に近衛文麿内閣の農林大臣となった。大政翼賛会に参加していたこともあり戦後はGHQにより巣鴨行き(無罪釈放)
1956年に日本初のファン投票選出馬によるレース「中山グランプリ」を創設した氏だが、翌年に急逝。そうしてレース名が、彼の功績を讃えて「有馬記念」と改められた。
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安藤勝己(あんどう かつみ) (1960- )
地方の強豪どころが集まる笠松においてリーディングを張っていた猛者。通称「アンカツ」は有名。地方通算3299勝、勝率23.5%、連対率40.5%。
笠松時代のアンカツ
笠松時代のオグリキャップの手綱を取っていたのも彼。オグリのヤネは河内でも南井でもなければ、まして武でもない。アンカツだ!
'99年、彼は「笠松のリーディングはいらない」と言い放ち、慣れない中央で毎週のように騎乗しては勝ちを収め、結局1年間で55勝・連対率24%、東西リーディング17位という成績を残した。
2001年、中央への夢を捨て切れず騎手試験を受験するも不合格。翌年、JRAが中央競馬で一定の成績を残した騎手への受験優遇制度を制定。これを利用して2002年再び受験して見事合格。移籍初年度から菊花賞をザッツザプレンティで勝つなど天才ぶりを遺憾なく発揮。2004年には東京優駿を含むGT4勝。
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安藤光彰(あんどう みつあき) (1959- )
安藤勝己の実兄にして、川原正一とともに笠松のビッグ3を形成していた騎手。2007年、JRAに移籍。中央移籍時の地方通算勝利数は2818勝。兄弟揃って2000勝というのは世界的にも珍しい。通称「アンミツ」。
笠松所属時代から中央には何度も参戦して12勝(重賞2勝)を挙げ、その手腕は高く評価されていた。また、地方競馬の短期所属騎手制度を利用して大井や船橋に所属するなど、笠松以外の競馬場にも積極的に参戦していた。
JRAの騎手免許試験も失敗を経ながらも、2006年度1次試験から受験して合格。赤木高太郎、柴山雄一に次ぐ3人目の優遇措置なしでの合格となった。2007年3月、晴れてJRAジョッキーとなったが、新人なのにいきなり平地最年長騎手としてスタートすることになり話題となった。
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<い>
【井崎脩五郎】【石崎隆之】【石橋守】【伊藤修司】【伊藤竹男】【伊藤雄二】【今井規和】【岩田康誠】
井崎脩五郎(いさき しゅうごろう) (1947- )
本名:布目健二。ホースニュース『』に所属している競馬評論家 兼 会社員。
明治大学商学部除籍後、株式会社ホースニュースに入り、競馬専門紙記者となる。フジテレビ『スーパー競馬』に出演し、自分の予想に都合のいいデータを見つけてきては、こじつけとも言える強引な予想を披露する競馬評論家。…なのだが、その実体は株式会社ホースニュースの広報部部長という、いち会社員。
競馬評論家だけにとどまらず、TBSテレビ『噂の!東京マガジン』では中吊り評論家として出演。こんなことしてるから本業で予想がさっぱりなのでは?
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石崎隆之(いしざき たかゆき) (1956- )
毎年全国リーディングの上位に名前が記載される、船橋の、そして日本の宝というべき騎手。その実績は多すぎて輝かしすぎて割愛せざるを得ない程である。2005年3月2日5500勝達成は佐々木竹見に次ぐ日本歴代2位の記録。石崎駿騎手(船橋)は長男。
石崎隆之騎手
主な勝鞍は東京ダービー(グレイドショウリ、サプライズパワー、トーシンブリザード)帝王賞(トムカウント、アブクマポーロ)東京大賞典(アブクマポーロ)などその他多数。
'90〜2002年まで13回連続でNARグランプリ最優秀騎手賞受賞。'94年ワールドスーパージョッキーズシリーズ優勝。
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石橋守(いしばし まもる) (1966- )
JRA騎手。第73代ダービージョッキー。
第73回東京優駿を制して
優勝旗を手にする
石橋守騎手
競馬学校1期生。同期には柴田善臣がいる。初騎乗を初勝利で飾るなど、デビュー年は25勝を挙げ、それ以降ずっと毎年2ケタ勝利している。
石橋の名が知れ渡ったのはライブリマウントとのコンビ。当時GUだったフェブラリーSなど中央重賞3勝。帝王賞マイルCS南部杯を勝ち、日本調教馬として初めてドバイワールドカップに挑戦した。ただフェブラリーSはGTでなかったし、帝王賞マイルCS南部杯にしてもダートグレードが整備される前であったため、せっかくGTを勝てるだけのだったがGTの味を知ることはなかった。
その後もGTを勝つには至らなかったが、2006年メイショウサムソンで皐月賞を制してデビュー22年目にしてGT初勝利。さらには東京優駿も制して騎手の最高の栄誉まで手にした。
朝一番に調教コースに顔を出し、最後まで居残る、という競馬に対する真摯な姿勢から、馬主や厩舎関係者の信頼は厚く、騎手仲間からも敬愛される人物として知られる。皐月賞でGT初制覇を成し遂げた時は阪神競馬場のジョッキールームで拍手が起こったという。
last update : 2006/05/30
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伊藤修司(いとう しゅうじ) (1930- )
伊藤雄二と仲の悪い調教師。
'97年の天皇賞(秋)で人気の一角エアグルーヴを出走させる伊藤雄二に対して、芝でまるで実績のないエムアイブランを、雄二のに勝たせないためだけに出走させた。が、結局エムアイブランは勝ったエアグルーヴから2秒7遅れの最下位に沈んだ。
しかし修司は雄二にはない大記録の持ち主で、最多連続年度重賞競走優勝調教師('65年〜'91年の27年間)というドでかい記録を果たしているマーチス、ヒデコトブキ、グランドマーチス、スーパークリークなど…)。他に'77〜'80年最多勝調教師。通算勝利数歴代5位(1223勝、重賞83勝)
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伊藤竹男(いとう たけお) (1933- )
三冠馬シンザンのライバルと称されたウメノチカラに騎乗していた騎手として有名。シンザンを回顧する番組などではインタビューされるのが常だが、何を喋っているのかサッパリ聞き取れないので画面下に字幕が出るのも常である。
しかして、その実体は第25回東京優駿の優勝ジョッキー(騎乗馬ダイゴホマレ)にして、初の昭和生まれダービージョッキーだったりする。通算471勝。('58年まで旧姓・勝尾) 調教師としては通算235勝。
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伊藤雄二(いとう ゆうじ) (1937- )
伊藤修司と仲の悪い調教師。
'98年札幌開催で、伊藤修司の管理馬で評判だったブルーコマンダーのデビュー戦にまだ仕上がっていないエアギャングスター(ダンシングキイの仔)を出走させた。ちなみに結果は共倒れ…。
しかし修司と違って師には競馬史に残るような大記録はないが、'83・'84・'87年最多勝調教師になっている。2005年2月19日、史上8人目となる1100勝を達成。通算1155勝。
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今井規和(いまい のりかず) (1957- )
平地重賞勝率100%の偉大な騎手。
'85年、騎手人生で最初で最後の平地重賞騎乗であるCBC賞でニシノイブを駆り、勝ってしまった。
障害レースの方でも重賞騎乗があり、'99年東京ハイジャンプでマイネルタスク(1番人気)に人生2度目の重賞騎乗をしてしまい、レガシーロックの2着に…。この時点では重賞連対率100%との表現もあったが、秋に京都ハイジャンプで同馬に騎乗。レース中に故障発生したこともあり6着に敗れ連対率も誇れなくなってしまった。
2003年2月28日にひっそりと引退。騎乗回数1447回、通算44勝という成績だった。
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岩田康誠(いわた やすなり) (1974- )
兵庫(園田・姫路競馬)小牧太が在籍していた時分に唯一リーディング争いの出来た騎手。そして2000年、2勝の僅差で太を上回り初のリーディングに! 全盛期の小牧太からリーディングを奪ったことは永遠に語り継がれるべき栄誉である(2002年にも太を抜いてリーディングに就いている)。地方通算2941勝、勝率22.5%、連対率38.6%。
岩田康誠騎手
最強アラブが集結していた兵庫で'96年三冠馬となったケイエスヨシゼンのヤネとしても有名。ケイエスヨシゼン騎乗時に、プレッシャーから吐いたのは有名な逸話。本人も何度かインタビューなどで自分のプレッシャーに対する弱さを吐露している。
'98年に兵庫史上最速で1000勝達成、2002年2000勝達成を果たし、2004年には地方騎手として初めて中央のクラシックを勝利する(菊花賞・デルタブルース)という偉業を達成。2004年に兵庫在籍のまま中央通算100勝を達成。
2005年第19回ワールド・スーパー・ジョッキーズ・シリーズで41ポイントを獲得して初出場にして初優勝。この年の地方騎手代表は兵庫県競馬で各地方のトップジョッキー12人を集めて予選を行い選出するというものだった。岩田はこれに優勝し、そして本番でも優勝してみせた。やはりワールド・スーパー・ジョッキーズ・シリーズの地方代表枠が「1」というのは少なすぎるのでは?
2006年、過去5年で中央で年間20勝以上を2回達成したことでJRA騎手試験の1次試験免除を受けてJRA騎手試験に合格。デビュー週にいきなり22鞍もの騎乗依頼を受けるという記録を作る(従来の記録は小牧太の20鞍)。そしてJRA騎手免許取得後、初騎乗初勝利を6番人気ので達成。天才ぶりを遺憾なく発揮している。
last update : 2006/03/10



<う>
【上村洋行】【内田浩一】【内田利雄】
上村洋行(うえむら ひろゆき) (1973- )
'96年5月アイルランド、11月アメリカへ武者修業をし、会得してきたことが、重賞レースで騎乗している人気馬にゲートをくぐらせたり('97年弥生賞サイレンススズカ)、勝ちレースを捨ててみたり('97年神戸新聞杯)、騎乗中に2kg痩せて騎乗停止を受けてみたりすることだった('98年日経新春杯ナムラホームズ)、という最近では珍しい個性派騎手。(もちろんこんな騎手が使えないことは言うまでもない)
last update : 2005/07/16
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内田浩一(うちだ こういち) (1968- )
'90年の第51回菊花賞を勝ったのがメジロマックイーンだということを知る人は多くても、この時の騎手は武豊ではなく内田浩一であることを知る人は多くない。彼はまぎれもなく菊花賞ジョッキーなのだが…。
last update : 2005/07/16
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内田利雄(うちだ としお) (1961- )
ブライアンズロマン、ベラミロードをお手馬にしてきた栃木のトップジョッキー。勝負服は桃、白星散。世界で最もピンクの似合う男だ。2004年11月には3000勝を達成。
内田利雄騎手
内田公認のファンクラブがあるらしい。栃木時代、彼が地方遠征するときは自らバスをチャーターしてファンの皆様と現地へ向っていたのだとか…。実に素晴らしい。騎手の鑑だ。
公認ファンクラブどころかもっとビックリなのは、「リチャード・ピンク」という芸名でバンドまでやっていること。バンド名は「ひまわる」。これまでに大井競馬場や高知競馬場などでライブを行なっている。
こんな素晴らしい騎手を擁していた宇都宮競馬が2005年3月14日を以って廃止となり、内田は路頭に迷うハメに。しかし彼はヘコたれず、全国フリー騎手化推進を目指して、2005年6月から2ヶ月間の短期免許で岩手、2005年9月からは2ヶ月間の短期免許で笠松、…とあちこちを渡り歩いている。また2007年はマカオに参戦して重賞勝利を果たすなどの活躍も見せている。
last update : 2007/04/20
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<え>
【江田照男】【蛯名正義】
江田照男(えだ てるお) (1972- )
'91年天皇賞(秋)でプレクラスニーに騎乗し2位入線。しかし、1位入線メジロマックイーンの武豊が発馬直後の大斜行という愚行で18着降着。それにより繰り上がりながら史上最年少天皇賞制覇の記録を成し遂げた。
2000年スプリンターズS表彰式
しかしその後は乗りに恵まれたとは言えない騎手人生であったが、'98年日経賞で最低人気のテンジンショウグンを勝たせた(重賞馬連配当史上最高)頃から急に乗れるようになり、今では穴騎手として知られる。2005年600勝達成。重賞25勝(うちGT2勝)
last update : 2007/04/20
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蛯名正義(えびな まさよし) (1969- )
'95年天皇賞(春)で、逃げ込みを図るライスシャワーをステージチャンプで大外一気に猛追し勝ったと思い込みガッツポーズしたものの、写真判定の結果2着で大恥をかいた騎手。
彼はこの一件を、「騎手の体はこっちが出ていた」などと、わけの分からん言い訳をしていた。本人は思い出したくない一件らしいが、見ていたものはなかなか忘れられない光景だったはずである。
そんな彼だがエルコンドルパサーが的場均から下賜された途端、急に人生が上向きになり、とうとう同馬で海外GTは勝つわ、凱旋門賞で2着になるわ、挙げ句には当地で、伝説の大騎手レスター・ピゴット並の騎手だと過大評価されるわ、平成11年11月の天皇即位10周年祝賀式典に招待されるわ、の有り様である。これではかえって今後の騎乗次第ではあの時以上の恥をかきかねない状態である。
しかし彼は1992年に初重賞勝ちを収めて以来、2007年まで16年連続で重賞勝ちしており、またクラシックも'99年オークス(ウメノファイバー)、2001年菊花賞(マンハッタンカフェ)で勝っており、いっぱしの騎手なのである。
last update : 2007/04/20
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<お>
【大川慶次郎】【大崎昭一】【大塚栄三郎】【大坪元雄】【大西直宏】【岡潤一郎】【尾形藤吉】【岡部幸雄】
大川慶次郎(おおかわ けいじろう) (1929-1999)
競馬評論家。実業家でありタイヘイ牧場を所有するオーナーブリーダーであった大川義雄の二男として1929年に誕生。渋沢栄一の曽孫にあたる。慶應義塾大学卒業後は会社員や、新田新作(明治座社長、メイヂヒカリのオーナー)の競馬秘書、牧場長を経て日本短波放送の解説者となる。
大川慶次郎
'61年9月3日に『』紙上で日本の競馬史上に残る全レース予想完全的中という快挙を成し遂げ、たまたま同席していた『週刊読売』の記者がこれを記事にし話題となった。その後、フジテレビ『スーパー競馬』の解説者、『ケイシュウニュース』専属評論家、日刊スポーツ専属評論家などで活躍し“競馬の神様”としてファンに親しまれた。
大川の最大の功績は予想のファクターに“展開”を取り入れたこと。それまではの力関係だけが対象であり、また調教師の予想やコメントが頼りだった。それに対し“展開”という、素人でも考えられる要素を提供したことで、競馬予想を一般のものにした。大川は“展開”を基に、1日の全レースの連勝馬券を当てるパーフェクト予想を4回達成した。
大川は『スーパー競馬』のパドック解説で“バカに良く見える”のコメントで有名なほどパドック重視だったが、以前は調教重視だった。その頃、調教でまったく走らなかったシンザンに対し一度も本命印を打たなかった。大川は三冠馬に本命を打たなかったことを悔やみ、ミスターシービー菊花賞ではとにもかくにも本命印を打った。
実況の横に座って解説していた頃はよく絶叫することで知られた。
  • '83年のジャパンカップでは「プロミスっ! プロミスっ!」(スタネーラの2着キョウエイプロミスに対し)
  • '84年の菊花賞では「ウェイ!」(シンボリルドルフの2着ゴールドウェイに対し)
  • '90年の有馬記念では「ライアンっ! ライアンっ!」(オグリキャップの2着メジロライアンに対し)
1999年12月15日、美浦トレセンでの調教取材後ゴルフを楽しみ、その後の寿司屋での会食中に倒れ入院。21日に高血圧性脳出血で永眠。倒れてから意識を取り戻すことはなかったが、家族が競馬中継やGTのファンファーレを聞かせると脳波が強く反応したという。死の5日後に行なわれた有馬記念は、倒れる直前に本命として挙げたグラスワンダーが勝ち、“生前最後の予想”が的中した。
last update : 2006/05/02
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大崎昭一(おおさき しょういち) (1945- )
24歳('69)の時にダイシンボルガードで、36歳('81)の時にカツトップエースで、と年男でダービーを制覇してきた。この勢いで48歳も、とはいかなかったので、彼には60歳で還暦ダービーを狙っていただきたい。と思っていたら'99年に突然引退してしまった。(現在は予想家)
グリーングラス有馬記念、フジノパーシアやレッツゴーターキンで天皇賞(秋)など大レースに強い騎手だったが、八百長疑惑をかけられ関西へ行き心機一転1000勝を目指したのだが脳腫瘍がもとで残り30勝で敢え無く引退。惜しい人を亡くした…(死んだわけじゃないんだけど)
last update : 2005/07/16
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大塚栄三郎(おおつか えいざぶろう) (1953- )
元板前という経歴を持つ異色騎手。2006年引退(通算612勝、重賞15勝)
'93年、京都に遠征した際に、飲んで遊んで、レース前日に入るべき調整ルームに遅刻して入れなかった結果、騎乗停止を喰らった。
'96年10月26日のあるレースで、藤原英幸騎手のプレーに腹を立てレース後に殴りかかった結果、実効4日間の騎乗停止を喰らった。
last update : 2006/03/22
first entry : 2005/07/16


大坪元雄(おおつぼ もとお) (1939- )
『競馬ブック』専属の競馬評論家。ホースニュース『』、『競馬ブック』のトラックマンを経て、現在の職にある。ラジオNIKKEIの毎週土曜日午後の競馬中継と、関西テレビ『ドリーム競馬』のメイン解説を担当している。
パドックやレース前解説での「男馬のような」「脾腹のあたりが」などの相馬眼コメントはともかく「存外〜」「ジョッキーが跨って気合が…」などの独特な言い回しや、「クロシオ(クロフネ)」「マンハッタンギャル(マンハッタンカフェ)」「オースミパレード(オースミレパード)」などの馬名の言い間違い、さらには「10点満点はあげられなくても、90ぐらいはあげられるんじゃないですか」といった意味不明な発言など、味のあるキャラクターで競馬ファンに親しまれている。
彼はとにかく喋る。内容をまとめて話すのが苦手だ。杉本清アナが現役だった頃、「大坪さん、まとめてください」と言われたが延々と喋り続け、石巻ゆうすけアナのゲートリポートの時間が押してしまい、「大坪さん、ちょっと待ってくださいね、石巻さ〜ん」と遮られた。学習能力もないらしく、2005年にも、馬場鉄志アナに「時間がありませんので、ラインクラフトについて手短にお願いします」と言われたにも関わらず長々とラインクラフトについて語り、さらに同走のエアメサイアについても喋ろうとしたため、馬場アナに「ありがとうございました」と途中で遮られた。いつもそんな調子だからコメント中にレースがスタートを切ることなどしばしばである。
last update : 2006/04/15
first entry : 2006/04/15


大西直宏(おおにし なおひろ) (1961- )
第64代東京優駿優勝騎手(騎乗馬サニーブライアン)。ちなみに彼の東京優駿での生涯連対率は100%である(第54回サニースワロー(サニーブライアンの叔父)でメリーナイスの2着がある)。2006年引退。6620戦521勝(重賞12勝)
'97年東京優駿を前にインタビューを受ける大西直宏
'97年に皐月賞ダービーを勝つまではまるで無名の騎手だったがそれまでに彼は、最優秀新人騎手になっている他、第1回ジャパンカップで日本人最先着した(騎乗馬ゴールドスペンサー)経歴があった。
ダービーを勝った途端、急に騎乗数と勝ち鞍が増えた。サニーブライアンで皐月賞を勝つまでに勝っていた重賞といえばアラブ重賞1つだけ('82年アラブ大賞典(秋))だった。それが2000〜2004年の5年連続で重賞制覇、2004年にはカルストンライトオでスプリンターズSを勝つまでになった。
last update : 2007/04/20
first entry : 2005/07/16


岡 潤一郎(おか じゅんいちろう)(1968-1993)
デビュー年にいきなり44勝を挙げ最優秀新人騎手。'91年エリザベス女王杯(リンデンリリー)を勝つなど将来を期待された騎手だったが、'93年2月16日、レースで落馬し死亡。同期には岸滋彦、千田輝彦、内田浩一、菊沢隆徳、藤原英幸。
在りし日の岡騎手
'90年の宝塚記念でオグリキャップのヤネに抜擢。戦前にただに跨っているだけで勝てると言われていたためか、本当にただ跨っただけで何もせずオサイチジョージの2着に敗れた。
last update : 2005/07/16
first entry : 2005/07/16


尾形藤吉(おがた とうきち) (1892-1981)
調教師として1670勝(国営時代を除く)ダービー8勝、天皇賞11勝、八大競走にのべ頭数285頭出走させ39勝。いずれの数字もダントツの歴代1位である。人呼んで「大尾形」。尾形盛次調教師(故人)は子息、尾形充弘調教師は孫。2004年競馬殿堂顕彰。
彼は師匠としても優秀で、ダービージョッキーを6人送り出している。中には保田隆芳、森安重勝、八木沢勝美らが含まれる。またその手腕を見込まれ、他の調教師らが自分の弟子や息子を尾形に預けたりした。野平祐二伊藤修司などがその代表。
馬房数制限の無かった時代とはいえ、これはかなり凄すぎる。ちなみに「尾形一門」に属した騎手の一部を挙げると、高橋亮、河内洋寺島祐治、沢昭典、徳吉孝士、柿元嘉和、小原義之、栗原洋一、成田均、石山繁、穂苅寿彦、天間昭一、後藤浩輝武豊。これでまだ一部である。それにしても、「降着制度適用第1号騎手」「負担重量ごまかし騎手」「木刀殴打騎手」の名が見えるような…。
last update : 2005/07/16
first entry : 2005/07/16


岡部幸雄(おかべ ゆきお) (1948- )
初騎乗は'67年3月4日2回東京2日12Rヨネノハナで3着。初勝利は同年5月5日3回東京4日1Rミスコロナ。以来コンスタントに勝ち鞍を重ね、'95年1月に増沢末夫騎手(現調教師)の2016勝を超え、2005年3月10日に引退するまでに18646回騎乗し2943勝(うち障害15勝、重賞165勝)を挙げる。
岡部幸雄
福永洋一柴田政人、伊藤正徳ら花の15期生だったが、デビューした当初は「障害の岡部」として知られた程度。'71年カネヒムロでオークスを勝ったことがきっかけでサンタアニタに遠征し、以来海外かぶれとなったらしい。
'84年2月18日東京8R、向正面で杉浦宏昭騎手(現調教師)の騎乗するスイートボルドーの斜行のあおりを受けたクインテシオ騎乗の彼はこれに腹をたてレース中に杉浦を殴打。実効2日の騎乗停止処分後、坊主頭にしフェアプレーを心がけるようになったというが…、この年の皐月賞で、シンボリルドルフで勝ったはいいが2着のビゼンニシキの進路を妨害したとして失格にはしないが騎乗停止にする、という変な制裁を受けている。
last update : 2005/07/16
first entry : 2005/07/16




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