「楡馬」版−競馬辞典

―― 馬編 ――
Last Update 06/10/01


<は>
【ハイセイコー】【ハクチカラ】
ハイセイコー (1970-2000)
第33回('73)皐月賞、第10回('74)宝塚記念優勝馬。他に第40回東京優駿3着、第48回菊花賞2着、第18回('73)有馬記念3着、第19回('74)有馬記念2着。'73年大衆賞。'84年顕彰馬。2000年NARグランプリ特別表彰馬。父・チャイナロック、母・ハイユウ。22戦13勝(うち地方6戦6勝)
'72年7月12日、大井競馬場1000mでのデビュー戦を59秒4で8馬身差の大楽勝。以後も大差・8馬身・大差・7馬身・7馬身と楽勝続きの6戦6勝と無敵を誇った。
その後、中央・鈴木勝太郎厩舎に転厩。転厩にあたりマスコミが「怪物、怪物」と書きたて、転厩初戦の弥生賞、続くスプリングS皐月賞NHK杯と人気に応え勝ち進んだこともあり、人気がエスカレート。ダービーでは怪物見たさに当時の入場者レコードとなる16万9千人が東京競馬場に押し寄せ、ハイセイコーの単勝馬券が全体の66.6%を占めた(この数字は2005年ディープインパクトに抜かれるまで最高記録)
怪物と騒がれても所詮は何の変哲もないサラブレッド。怪物というものを一度見たくて初めて来た競馬場でハイセイコーを目の当たりにして「なんだ、ただのじゃないか」とガッカリした、なんて話が本当にあったらしい(一体どんなものを想像してたんだ…?)。だが一般紙や少年誌に取り上げられるなど、競馬を大衆化させた功績は今でも称えられている。
結局タケホープやタニノチカラなどに阻まれ大きなタイトルに手が届くことはなかったが、ハイセイコーの人気が衰えることはなく、引退に際して『さらばハイセイコー』というレコードが出る始末。引退後は種牡馬になり、カツラノハイセイコ(東京優駿天皇賞)、ハクタイセイ(皐月賞)、サンドピアリス(エリザベス女王杯)やキングハイセイコー(東京ダービー、羽田盃)らを送り出すなど大成功を収めた。
last update : 2005/07/17
first entry : 2005/07/17


ハクチカラ (1953-1979)
第23回('56)東京優駿優勝馬。他に第36回('57)天皇賞(秋)、第2回('57)有馬記念優勝。'57年年度代表馬・最優秀5歳以上牡馬。父・トビサクラ、母・昇城。'84年顕彰馬。49戦21勝(うち海外17戦1勝)
その時点までに天皇賞5勝を果たし「天皇賞男」の異名をとっていた保田隆芳ダービー初勝利をもたらした。その後、天皇賞有馬記念を勝ち、遂には保田と共にアメリカに遠征。'59年2月23日ワシントン・バースデーハンデで Round Table らを抑え重賞制覇を果たした。
引退後は種牡馬になったハクチカラだが、時代は内国産蔑視の風潮で肌馬の半数はアラブ。そんな折'68年にインドに寄贈。初年度からカルカッタオークスなどのクラシックホースを2頭輩出。その後もカルカッタダービー馬など多数の活躍馬を送り出した。ただ残念ながら後継種牡馬は生まれなかったようである。
last update : 2005/07/17
first entry : 2005/07/17



<ひ>
【ヒサトモ】【ヒシスピード】

ヒサトモ (1934-1949)
繁殖名:久友。第6回('37)東京優駿、第3回('38)帝室御賞典(現・天皇賞)(秋)優勝馬。父・トウルヌソル、母・星友。半兄に種牡馬・月友。31戦16勝(うち地方5戦2勝)
牝馬の東京優駿馬第1号なった。6年目にして初めて良馬場で行なわれたことも手伝って、従来のレコードを8秒8塗り替えるタイム。しかしながら当時から牝馬は勝てないと思われていたため人気は薄く、2年連続となる特払い5円が出た。
ダービーの他に帝室御賞典にも勝っただけに繁殖を期待されたが、仔出しが悪く、産駒成績も出なかったため、戦後間もなくの混乱も重なって、15歳にして11年ぶりの現役復帰(地方の戸塚、柏で出走)。そこで調教中の事故で死亡するという何とも悲惨な最期を遂げている(使われ方がひどく、10月31日の復帰戦も含めて約3週間の間に5戦を消化。特に最後の2戦は11月16日、17日と連闘。その2日後の11月19日に死亡)。戦後の混乱もあって亡骸は行方知れずで墓もない。
だが僅か4頭の忘れ形見のうちの1頭、ブリューリボンからその血(牝系)を途切れさせることなくトウカイテイオーに至っているのだから、競馬とはまさに血のロマンである。
last update : 2006/04/11
first entry : 2005/07/17


ヒシスピード (1974-??)
第28回('76)朝日杯3歳Sの2着馬。父・ヒシマサヒデ、母・ヒシハクギン。他に、第11回北海道3歳S、第17回京成杯、第11回東京4歳S優勝。15戦8勝。
'76年6月札幌でデビュー。2戦目で1000mを9馬身差で初勝利、続く3戦目は重賞・北海道3歳S(ダート1200m)を6馬身差でレコード勝ち。圧倒的なスピードを持っていることを示した。
そして5戦目の府中3歳Sでマルゼンスキーと初対決。このときは2着に敗れはしたがタイム差なしだった。ところが次の朝日杯3歳Sで伝説的なレースとなる。スタートすると勢いよく飛び出したのはマルゼンスキー、続いてヒシスピード。スピードに任せて2頭が他4頭をみるみる引き離す。しかしどこまで行ってもマルゼンスキーとヒシスピードの差は縮まらない。そして4コーナーを回って直線に入る頃には逆に差が広がる。坂に入ってもどんどん差は広がる。もちろんヒシスピードのスピードが落ちたわけではなく、むしろ他4頭との差は広がっている。なのにマルゼンスキーはどんどん離れていく。結局終わってみれば2秒2差の大差となってしまった。ヒシスピードのタイム1分36秒6は例年なら勝っていておかしくないもの。マルゼンスキーと同期だったことを恨むしかなかった。
その後のヒシスピードは、京成杯で後のダービー馬ラッキールーラを、東京4歳Sでも後の菊花賞馬プレストウコウを負かすなど、強いところを見せたが、1番人気に推された皐月賞では7着に敗れ、ダービーでも13着と大敗。ダービーの2ヵ月後の札幌・短距離Sでマルゼンスキーにまたも10馬身差の2着に敗れ、結局マルゼンスキーに1度も勝てずその年に引退した。
'76年朝日杯3歳S
なまじ重賞を勝っているだったので、(そのに大差をつけて勝った)マルゼンスキーがどれだけ強かったか、を測る物差し的な扱いを受けるとなってしまった。
last update : 2006/10/01
first entry : 2006/10/01



<ふ>
該当項目なし

<へ>
該当項目なし

<ほ>
該当項目なし


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